多田神社に関わる伝説・伝承
九頭竜伝説
今からおよそ一千年前、源満仲公が新しい館をどこに築こうか思い悩み、
当時摂津守であったので、同国一の宮の住吉大社に参籠しました。
参籠して二十七日目、『北に向って矢を射よ。その矢の落ちる所を居城とせよ』
との神託を受けて、満仲公は鏑矢を放ちました。
家来を引き連れた満仲公は、放った矢を追いながら鼓ヶ滝付近まで来た時、
白髪の老人に出会い、矢の落ちた場所を知ることが出来ました。
(この場所は、「矢を問うたところ」として、『矢問』という地名で残っています)
満仲公が老人に教えられた場所に行ってみると、大きな沼があり、九つの頭をもった
二匹の大蛇(九頭竜)がおり、その一匹の大蛇の目に満仲公が射た矢が刺さり、
暴れまわっていました。
死に物狂いの大蛇は、苦しそうに堰を切って沼から逃げ出しました。
しかし、ついに力尽きて命を落としました。
(現在でも、九頭竜が死んだ場所として『九頭死(くずし)』という地名が残っており、
東多田という所に「九頭竜大明神」として祀られています) もう一匹の九頭竜は
下流の方に逃げ、命を落としました。(小戸神社境内に「白竜社」として祀られています)
大蛇と共に流れ出した水の後には、よく肥えた土地が残り、いつしか多くの田が出来た事に
より、『多田』という地名がつけられました
美女丸伝説
今からおよそ一千年前、源満仲公は戦などで血筋が途絶えないように御子の美女丸を僧侶にしようと
考え、修行をさせるかたわら和歌や管弦等を習わせる為に中山寺に預けました。
しかし、これを不満に思った美女丸はそれを聞き入れようとせず、武芸の真似事をして我儘な毎日を
過していました。
時が流れ、満仲公は十五歳になった美女丸を呼び寄せ、修行の成果を尋ねました。しかしこの時
美女丸は、和歌や管弦はもとより経文も読む事が出来ませんでした。
これを知った満仲公は、烈火の如く怒り、重臣の藤原仲光に美女丸の首をはねるように申し付けました。
しかし、主君の御子の命を奪う事が出来ず、困り果てていたところ仲光の実子の幸寿丸は、
「私が美女丸様の身代わりになります」と、申し出ました。
仲光は、止めどなく流れる涙を堪えて、幸寿丸の首を打ち、美女丸を密かに逃したのです。
後にそのことを知った美女丸は、今までの自分の行いを悔い改めて比叡山で修行に励みました。
やがて美女丸は、源賢阿闍梨という高僧になりました。
大江山鬼退治伝説
今からおよそ一千年前、源満仲公の御子に頼光公というたいへん武勇に優れた人がおりました。
丹波国の大江山の方で夜毎、鬼が現れて悪さをするので何とかして欲しい、という願いが都に届き、
調べてみると大江山に鬼が城を築き、財宝を奪い、人々を連れ去るなどと悪行を重ね、
人々を大変悩ませていたのです。
この鬼は大酒飲みで、髪に櫛を入れないで子供のような頭をしていたことから、『酒呑童子』と人々は呼んでいました。
これを退治するように天皇から命を受けた頼光公は、家来であり「四天王」とも呼ばれていた渡辺綱・
ト部季武・碓井貞光・坂田金時らを引き連れ、山伏の姿に変えて、大江山へと向かいました。途中
猪名川町にある東光寺で必勝祈願をしたと伝えられています。
大江山に着いた一行は、酒呑童子に近づき、酒に酔ったところを源家の宝刀鬼切丸でその首を切り、
めでたく凱旋しました。多田神社の境内にある池は、このとき鬼の首を洗った池だと伝えられています。
多田院 鳴動
都から離れ、多田という土地において中世の先駆けともなる武士団を形成し、
晩年には敬謙な信仰生活を営んだ源満仲公は、今からおよそ一千年前に
亡くなりました。
死に臨んで満仲公は、
「吾没後神を此の地に留め弓箭(ゆみや)の家を護るべし、
加之当院の鳴動を以て四海の安危を知るべし。」
つまり『自分は亡くなった後も、多田院の霊廟にて、我々源氏一門を護ろう。それだけでなく鳴動をもって国内の安全か危険かを知らせよう』と遺言したと伝えられています。
鳴動とは、音を発して揺れ動く事であり、事変の急を天下に予告したといわれています。
鳴動があると多田院は、直ちに幕府に報告しました。
鳴動は、全国にわたり事例があるが、多田院鳴動は佳例(めでたい先例)と伝えられています。